芸術起業論 を読んで
アートとは問いであることは『〈問い〉から始めるアート思考』で学びました。
ただそれだけでは評価される作品だとは言えないようです。評価されるアートとは、アートの文脈に繋がっているものだと作者は言っています。
アートの歴史を紐解き、その文脈に沿っているものでなければ価値は無く、評価もされません。アートとはそういうルールの上で成り立っています。
評価とは金銭的な価値のこと、つまり売れるかどうかということ。
アートをよく購入する層というのは殆どが富裕層です。彼らが何を求めてアートを購入するのか、それは未知の感覚だと思います。
富裕層というものは世の中のあらゆる感覚を既に手に入れています。お金があれば大抵のものは手に入りますから。美味しい食事、ハイブランドの服や宝石、豪邸、高級車、クルーザー、酒、SEX、ギャンブル。物質的な快楽だけではなくてビジネスでの達成感や自己肯定感など、この世で味わえる感覚をもうしゃぶり尽くしています。
そんな彼が味わったことのない感覚を求めるのがアートなのです。だからこそ評価されるアートには規格外の値がつくのです。
売れるアートとは富裕層を刺激するような新たな感覚を放ち、尚且つ美術史の文脈に沿うというルールを守っているものなのです。
美術史の文脈に沿わせるという作業ですが、これに関しては作品に対して自ら価値を付加してもいいということです。美術史という大木の幹があってそこから生える枝葉をアーティスト達は創っていくのです。
アートとはただ世の中に発信するのではなくて、キチンとその土台からブランディングしていかなければ評価をしてもらえないよ、という作者の強いメッセージを感じました。
このメッセージはこれから私が携わる仕事や趣味の絵描きに大きな影響を与えてくれそうです。
〈問い〉から始めるアート思考 を読んで
作者はアートディレクターをしています。父が画廊を経営していて、岡本太郎ら著名な芸術家達と幼い頃から交流があったらしいです。実際に芸術家を目の当たりにしてきた人だから語っていることには信憑性が持てます。
アートとは問いである。どんなに汚い絵でも理解不能な彫刻でも作者の問いが秘めてあるのならそれはアートです。逆にどんなに美しい絵でも問いが無ければアートではありません。
アーティストは己の内側にある問いをアートを通じて社会に向け発信します。それがどんな種類の問いでも構いません。問題を解決する為にアートを製作するのではなく、問題を問いかける為にアートを製作します。
アーティストの投げかける問いが社会に波及し、イノベーションを促進します。
美術史はイノベーションの歴史です。宗教画から写実主義へ、写実主義から印象派へ、印象派からシュールレアリズムへ、現状を打破する為にアーティスト達の様々な挑戦がありました。
美術史はテクノロジーに先行してイノベーションを起こしています。ビジネスに応用したり、未来を予測するにはアートを参考にするといいと思いました。
作者は素人でもアートを作ってもいいと言っています。それが頭の中でだけであってもです。
個人的に非常に勇気づけられる言葉でした。私も絵を描くので(とはいってもイラストや漫画の類ですが)日々感じている潜在的な問いを絵を通して発信していきたいです。
この本を読んでもっとアートに触れたくなりました。美術館や芸術祭にできるだけ足を運んでアートを目で捉えて、作品に潜んでいる問いに関して考えてみたくなりました。
私は今2人の子供がいます。まだどちらも言葉もまともに話せないくらい小さいので、もう少し大きくなったら家族でアート鑑賞を楽しみたいです。
アートとは何か、それを子供達になんとか輪郭だけでも伝えられるようになったことが今回の読書の一番の収穫かな、と思います。
野村ノート 読書メモ
弱いチームにはスクイズやダブルスチール等の奇策を講じさせて優位感を持たせる。
内角を打ち崩せないバッターはプロでは食っていけない。
現役時代に考え悩み苦しんだ選手でないと良いコーチになれない。
球種のヤマを張ることは勝負することであり、賭けである。
根拠のある賭けであれば見逃し三振してもいい。
賭けに出ないと戦力差がそのまま勝敗を決めてしまう。
弱者はいつまで経っても勝つことが出来ない。
外角低めは原点。
コントロールがないと話しにならない。
決断とは賭けのこと。
判断とは基準があるもののこと。
短期決戦で活躍する選手もいる。
4番やエースはチームの鑑。
4番とエースは育てられない。
チームのリーダーはオーナーである。
オーナーの意識が変わるとチームも変わる。
人気球団はタニマチによって腐敗する。
人間学のないリーダーに資格なし。
20歳の自分に受けさせたい文章講義 読書メモ
20歳の自分に受けさせたい文章講義
古賀史健
非常にわかりやすい文章だった。著者のことは「嫌われる勇気」で知っていた。
嫌われる勇気を読んでとても読み応えがあって読みやすい文章だと感じていたので、参考にしたい人だと思っていた。
最近物書きをうまくなりたいと思っているのでとても勉強になった。
以下、読書メモ
書くとは心のモヤモヤを翻訳すること。
文体とはリズム。
リズムとは論理的であること。
論理的な文は図に書き起こすことができる。
文章のカメラワークを意識する。
導入が面白くないと読んでもらえない。
細部の描写で映像を浮かばせる。
好きな文章は自分が目指すべき文章。
嫌いな文章はなぜ嫌いかを考える。
理解しているものしか書けない
読者が求めているもの
- 目から鱗
- 背中を後押し
- 情報収集
行き詰まったらフォントを変えて軽い推敲をしてみる。
良い文章とは読者の心を動かし、読者の行動を促す文章。
久しぶりの海水浴
この前の日曜日に海水浴に行った。
震災以降行ってなかったので10年ぶりくらいの海水浴かな?
海水浴なんて、30超えたいい歳した大人だけで行けるもんじゃないから、自分に子供が出来てようやく行ける口実ができた。
小さい頃は海の近くで育ったこともあって海にはしょっちゅう行ってたな。
なんか少年時代にいっぱい遊んだから海にはもう飽きてたように感じてた。
でもまぁ子供にとっては良い刺激になると思って連れていったわけさ。
そしたら、まぁ、やっぱり海はいいねってなった。
海の近くは気圧の関係で心地よい風が吹く。風には潮の匂いが含まれていて、鼻に届くと昔の記憶を呼び起こす。
灼けた砂浜。
照りつける太陽。
空に浮かぶ海鳥のカーブ。
色とりどりのパラソル。
海の家で揚げている美味しそうなホットドッグの匂い。
はやる気持ちを抑えきれず砂浜から駆け出したこと。
足音は熱くて乾いた砂から冷たくて濡れた砂のピチャピチャした音に変わる。
興奮して叫びながら兄弟や友達と一緒に波打ち際に飛び込んだこと。
何もかも思い出した。
震災があってから海とは距離をとっていたのかもしれない。でもやっぱり海はいい。海は最高だ。波音と潮の匂いがあればそれだけでいい。無心になれるもの。ストレスが抜けていくのを感じる。
これは大きな収穫だ。今度から海水浴じゃなくても思いつきでふらっと来てみよう。心が癒されるはずだ。
幼児とスマホによるジレンマ
1歳と10ヶ月の娘がおりまして。
妻はスマホは教育上あまりよろしくないと思っているので、娘には絶対スマホを預けない。
かくいう私もスマホは幼児にはよろしくないと分かってはいるものの、娘のおねだりに根負けしてついつい貸してしまうのである。
妻には苦言を呈される。
大人が2人もいるのにスマホを預ける必要は無いと。
大人が1人しかいない状況で、料理中などで手が離せない場合はスマホやTVは見せてもいいという。
確かにその通りだ。
だがモヤモヤする。
スマホが原因で子供に悪影響があるかどうかはまだ完全には分かっていない。
調べてみてもエビデンスがしっかりしていない。
今分かってることは視力が悪くなったり斜視になってしまうことぐらいだ。
しかもこれは長時間見続けた場合だ。
もちろん目が悪くなるのは避けたいことだが。
私は娘の主体性や好奇心を殺したくない。
娘が夢中になっているのであればどっぷりスマホを使わせてやればいいのでは、という考えもある。
娘は初めのうちは自分の写真や動画ばかりを見ていたが、最近は自分でYouTubeを開いてアンパンマンの動画を観ている。
さすが幼児、散歩が早い。
タッチしたりスライドする感覚にもとっくに慣れている。
このスポンジのように夢中になっているものを吸収する姿を私は邪魔したくないのだ。
それに本を読んでも目は悪くなるのでは?
学ぶことは目が悪くなることなのでは?
だったらスマホを触らせようが何しようが同じなのではと思う。
でも、まだ1歳10ヶ月。
さすがにスマホ漬けはまずいか。
斜視になっても困るし、小さい頃からメガネは可愛そうだもんね。
スマホは毎日多くても30分くらい、時間を決めて触らせるようにしよう。
娘の前でスマホをいじるのもやめよう。
もっと一緒におもちゃで遊んだり、絵本を読んだりしよう。
好奇心は殺さずに、でも悪影響が出ないように。
偏りすぎた育児はしないようにバランスをとり続けていこうと思う。
皿洗いをしたい人
妻の両親を我が家に読んだ時、もしくは義実家に行った時、食事が終わり私が皿洗いをしようとすると必ず義母にこう言われる。
「皿洗いしなくていいからね〜」と。
私は皿を洗いたい。
なぜなら私の手が空いているからだ。
妻は乳幼児の息子に授乳している。
義母も一歳の娘の手や口を拭いたりして構っている。
義父は昔ながらの亭主関白おやじなので皿を洗ったりはしない。
義父は計算外。
こうなってくると手が空いている私が皿を洗うのが無駄がなく効率がいいと思うのだ。
だが義母は皿洗いをしなくていいと言う。
自分が洗う事にとにかくこだわる。
私は無駄なムーブが嫌いなので結局は義母を制して私が洗う事になるのだが。
義母が皿洗いに執着する事について考えてみた。
今まで専業主婦として多くの時間を生きてきた義母にとって皿洗い、もっと広く言えば家事は自らの価値を肯定するものなのだ。
専業主婦なので仕事を通じて承認欲求を満たす事ができず、故に自己を肯定できない。
家事をこなす事で家族に対しての貢献感が生まれ承認欲求が満たされ、自己肯定ができる。
家事を誰かにとられてしまうと義母は自己肯定が上手くできず、存在意義を失ってしまうような気がして不安なのだろう。
日々テクノロジーが発展している現在において、家事のコストはどんどん下がっている。ドラム式乾燥機付き洗濯機やルンバ等のロボット掃除機、風呂掃除もスプレーするだけでOKな時代になってきている。
共働きが増えて家事の時間が少なくならざるを得ない事実も家事コスト減少を推し進める原因になっている。
専業主婦はもう不要だと思う。
義母のように前時代からの生き残り専業主婦は時代の変化にもろに飲み込まれている。
自らの価値が否定されていくなかで不安に駆られて揺れ動いている。
貢献感を家事に求めている事は時代に合っていない。
もう家事は片手間でこなせるくらいコストが下がっている。
ならば貢献感を違うものに求めてもいいと思う。
私は短時間の仕事かボランティアをすればいいのにと思う。
ただし、自分の得意なもので。
義母は昔美容室を営んでいたので髪を切るスキルはある。
それを利用して介護施設で散髪をすればいいと思う。
義母は毎日時間が有り余っている。
無駄な時間をかけて家事をして暇を潰すより、食洗機だの乾燥機付き洗濯機だのフル動員して家事の時間を減らして、浮いた時間を使って散髪する仕事でもやればいい。
世の中の役に立つ事で今まで以上に貢献感を得て承認欲求が満たされ、幸せを感じる事ができる。
前に一度打診したら老人の髪は脂っぽくて汚いから触りたくないとかで断られたw
暇なんだからなんかやれよと思うがね。
今は子供がまだ小さいので何かあった時にヘルプで来てもらえるから助かってはいるけど。
やっぱり今まで何もしてなかった人になにかをやれというのは難しいんだなと感じた。